大隆盛期と大浄化期について      石原加受子



隆盛期・浄化期・占い・運勢・6年周期・石原加受子

おおまかに言うと、大隆盛期や年隆盛期の時期には、物質的な願い、例えば仕事の成功、地位、名誉、財産、恋愛成就等々の願いが叶いやすい時期となります。

この時期は、仮に倫理や道徳に背くことをしていても、思いが叶います。

ただし、ここがポイントです。

大浄化期や年浄化期には、自分のネガティブな意識が浮上してきて、それが形になります。

例えば、罪悪感が強い人、自責の念が強い人、自罰的な人、あるいは犠牲者意識や被害者意識や復讐心が強い人など、自分の根っこにある意識が、実現化します。

隆盛期のときには、意識の根っこにこんなネガティブな意識があったとしても、隆盛期の運気が、ちょうど相殺するような形であらわれますが、それでも隆盛期のエネルギーのほうが優るでしょう。

あるいは、表ではすばらしい業績を打ち立てて讃えられながらも、裏では、ネガティブな意識が次第に蓄積していって予兆のような形で進行している、ということもあります。

浄化期にはそんなネガティブな意識がいっそう顕在化していきます。

しかもそれが20年に渡って、ということになると、大隆盛期に向かう人にとっては福音となるでしょうが、中年期以降で大浄化期に向かっている人にとっては、

「じゃあ、これからは、もう、どんなに努力しても沈むばっかりということですか」
と絶望的な気持ちになる人もいるでしょう。

リズム診断をするのは、自分のリズムを人生に活用していただきたいからです。

自分の人生に「リズムや周期がある」ということを承知しておくことも、自分と向き合うことの一つだと言えるでしょう。

大リズムが下降している、あるいは大浄化期に向かっていると、
「どんなに努力しても悪くなっていくんだったら、何をやっても無駄じゃないですか」と言った人がいました。

その現象をどう解釈するか



隆盛期・浄化期・占い・運勢・6年周期・石原加受子

大浄化期というのは、そういうものではありません。

本来、他のさまざまな占いでもそうです。

どうしても、私たち自身が、ネガティブなほうに焦点を当てるために、リズムやその現象を悪く解釈してしまいがちです。

けれども、どんな場合でも、一つの出来事には、両面があります。
捉え方によって、それが「良い」とも「悪い」とも見えます。

それをどう解釈するか。
この解釈の仕方そのものも、私たち人類のテーマなのだと思います。

例えば、若いうちに大隆盛期を迎えた人は、それが終わると、リズム的には必然的に大浄化期へと向かいます。

大隆盛期を物質的な望みが叶うとしたら、大浄化期は、精神的な望みが叶う、というふうに捉えることができます。

大隆盛期に一世を風靡して、地位、財産、名誉等々を手にしたとしたら、大浄化期には精神的な進化を目指します。

そのために、大浄化期に向かう人やそのただ中にある人が、物質的な成功のほうに焦点が当たっているとしたら、何をやっても「うまくいかない」というふうになるでしょう。

例えば、政治家で言うと、2022年現在、小泉進次郎さん、石破茂さんは、大浄化期の中にいます。

彼らについての情報をご存じであれば「なるほどな」と言いたくなるほど、小泉さんも石破さんも、批判されたり思惑通りにならなかったりと、その行動がなかなか実りません。

そんな時期は、物質的な成功のほうに目をやるのではなく、言わば“心を磨く”ほうに視点を向けるべきなのです。

もしその時期に、“心を磨く”ほうに専念できれば、物質的な成功以上の「精神的成長を獲得している」と気づくことができるでしょう。

隆盛期でも悪いことばかり起こる?



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中には、大隆盛期であったとしても、自分の感覚では「悪いことばかりが続く」「トラブルばっかり起こる」という人もいます。

それは、自分の「ネガティブな意識」が形になるからです。

言い方を変えれば、それは、自分がそれを引き起こしている、ということができるでしょう。

人間の体は、よく、宇宙になぞらえられます。

宇宙にリズムがあるように、人間にもリズムがあります。

自分の中にあるネガティブな意識が、形になります。

「これじゃあ、浄化期と変わらないじゃないか」と思う人もいるかもしれません。

「浄化期のときも悪いけど、隆盛期のときも悪い」

そう見えるとしても、そうではありません。

例えば、「戦う」や「攻撃」を意識の根底に据えていれば、全生涯において、その意識がつきまとうでしょう。

願いが叶うという観点でみれば、隆盛期のときには、争っていても、自分が勝つことが多かった。

浄化期になると、争って負けることが多くなっている。
ということかもしれません。

「いいえ、どちらも、負けていました。悔しい思いをしていましたよ」
という人も少なくないでしょう。

しかし、争っているときは、実質的には自分が「勝っていた」としても、気分の“感じ方”では、悔しい思いが残ったり、「負けた気分」になったりするでしょう。

けれどもそれは、「争う」ということの特質です。

争えば、互いに傷つきます。
傷つかない争いは、ほぼ、ないでしょう。

時の大統領、首相であったとしても、すべてを「勝った」と認識できることは、ほぼないでしょう。

気分的には、相手をコテンパンにやっつけたとしても、それでも悔しい気持ちは残ります。

それが「争う」ということですから。

ですから、隆盛期には、自分としては悔しい気持ちが残っているとしても、客観的に勝った場面がたくさんあるはずです。

例えば、相手が1発叩いてきたら、10発殴り返しています。

相手が一言、自分に傷つくことを言ったとしたら、その100倍威力があるような言い方で、決定的に相手を打ちのめす言葉を浴びせているかもしれません。

それに気づいていないだけだと言えるでしょう。

「無意識」の観点からすると、自分自身は負けた気分でいるとしましょう。

それでも、例えば、
自分の味方になってくれる人ができる。

自分に同情してくれる。

負けると見せかけて、実際には、自分の願いは通っている。

例えば職場で、自分の暴言が発端だとしても、嫌いな相手が手を出せば、自分の言い分のほうが通って、相手が処罰されるというふうに、実質的には勝った、ということが起こっているはずです。

そういった意味で、大隆盛期も年隆盛期も、自分の思いがネガティブであれば、ネガティブな意識がそのまま形になっています。

記:石原加受子